定年を迎えて

江﨑悟

「こんな学校で強いチームなんか作れるわけがない。」16年前に初めて桜丘高校へ来た時の第一印象。汚い体育館、着崩した制服、教師へのため口。それを何とも問題視しない教師団。125対35で小坂井高校に練習試合で負け、小坂井高校の生徒に嘲笑されても、何も感じてない生徒。翌年、水越達10数名が入学し、彼らの姿勢を通して、勝てる目的集団への変貌を遂げ、3年次の全国ベスト16へ。

結果を出して辞めようと思ってた私は、知らず知らずに「すべては生徒の幸せのために」尽力する奉仕の心に溢れた桜丘高校の先生方の愛に感化され、勝つこと以上に大切なことを学びました。16年間で受けたご恩に感謝します。

青山幸悦

「最近お父さんよくしゃべるようになったねえ」と家族から言われ、「なるほど」と思った。進路の責任者になってこの十年間、思いっきり楽しんだ感じがしなかった。そんな日々だったから、二つの言葉が心に響いた。その一つが「ナンクルナイサア」沖縄の人々を支えてきたこの一言。心配事がある朝はいつもこの言葉を神棚の前でつぶやき手を合わせた。どうにかなっていくものだと思った。

もう一つが「プラス思考」卒業生にも送った言葉。難しい課題に直面しても前向きに考え行動すれば、チームワークが生まれ、苦しみがやりがいに変わっていった。そして、日々の生活の中で心がざわつくことがあっても、いざとなると一枚岩になってくれる「桜丘」という職場に救われてきた。

先日、定年退職を聞きつけ、三十四年前に初担任をした時の教え子たちがサプライズでお祝いを伝えに来てくれた。心から教師をやっててよかったと思った。最後に、これまで温かいご支援を頂いた父母の皆さん、教職員の皆さんに心より感謝申し上げます。

松岡一夫

桜丘学園の「D N A」とは−定年を迎えて感じること

実は、戦後15年経った時にこの世に生を受けました。今年定年を迎えた60歳とはそんな年です。しかし、僕の記憶の中に、戦争の影はありません。15年しか経っていないのに、日本はすっかり復興していました。戦争を経験した人たちから見れば、光陰矢の如しだったのでしょう。その後、日本は経済成長を経験し、バブルを経験し、時代は加速度的に進んでしまっているようです。

桜丘に赴任した30年前と、今では学校の様子も変わってしまいました。あの時にはあの時の課題があり、今には今の目標があります。それでも、変わらない桜丘の『D N A』とはなんでしょうか?

なんと言っても、「桜丘はここまでやる」という気概です。「ここまで生徒とともに遊ぶ」「ここまで父母とともに活動する」「ここまで街のために出かけていく」それが僕たちの誇りでした。「私学の様子を映画にして上演しよう!」「ナゴヤドームで10万人の集会をしよう!」「学校の枠をこえて、ミュージカルを作ろう」「学校を作ろう!」「2000名の合唱をやろう」愛知私学の壮大な運動の先頭に常に立ってきたのが、桜丘でした。そういう学校の教員であることに誇りを感じていました。

今年、新入生となり、新入社員となった多くの皆さんがいらっしゃると思います。皆さんの、60歳の時など想像できないでしょう。自分もそうでした。でも、自分の属した組織を愛し、日々を進める中で、未来は作られるものだと思います。皆様の新しい旅に期待しつつ、僕自身も、今日から新しい旅(それは新しい学校づくりです)をはじめていきたいと思います。終わりはありません。

 

村越由希子

「ありがとうございました」この感謝の言葉しか思いつきません。自分が定年を迎えることができたこと、すべて様々な方に支えていただいた結果だと思っています。男女平等とは言いますが、それでも性が働くことには障害が多くあります。妊娠・出産だけではなく、それに続く育児、さらに看護や介護など次々と方に圧し掛かってきます。社会が変わってきているとはいえ、まだまだ続く問題です。

私は働き続けて良かったと思っていますし、ぜひ、女性の先生方にも子供たちにその姿を見せて欲しいと思います。きっと何かを感じてくれることと思います。

そしてどうか、お身体、心の面も含めて、ご無理されないようお過ごしいただきたいと願っています。何度も口にしてきましたが、「あなたの代わりはいません。」大切な親として、子として、妻、夫、などなどの役割の代わりはいません。みなさんのご健康を心からお祈りしております。